出雲から侵入して建御名方命(たけみなかたのみこと)は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社の始まりがあります。
しかし、古事記に書かれた国譲神話とは別に、この地には神話があります。一子相伝で口伝えされた78代の命のつらなり。
諏訪の地は、出雲の神の征服によって、中央とつながり、稲作以降の新しい時代を生きてゆきます。
しかし、先住民、つまり洩矢神の子孫である守矢氏は、神長(じんちょう)として、諏訪の信仰と政治の実権を持ち続けたのです。
ミシャグジ神(樹や笹や石や生き神・大祝に降りてくる精霊)の祭祀権を持っていた神長。
神降ろしの力や、呪術によって神の声を聞いたり神に願い事をする力は筆頭神官である神長のみが持つとされました。
大祝の分身である児童は、内県、外県、大県からそれぞれ選ばれて奉仕していました。童子たちは神長屋敷西側の祈祷殿の位置にあったと言われます精進屋の中で一定期間の籠りをした後に前宮での神事に参加いたしました。
今から220年前の天明4年に、諏訪の祭りの様子を見分した菅江眞澄が記している。
「御神(おこう)といって、8歳くらいの子どもが紅の着物を着て、この御柱にその手をそえさせられ、柱ごと人々が力を合わせて竹の篠の上に押し上げて置いた。神長からは、4人目の下位の神官であろうか、山吹色の袂の神官が木綿襷(ゆうだすき)をかけて持つ。そこへ上下を着た男が藤刀というものを小さな錦の袋から取り出し、抜き放って神長に渡す。神長がこの刀を受け取り、山吹色の衣を着た神官に渡す。」
その後、立て木に縄で縛り付ける。かつては、おこう(紅の着物を着た子ども)は殺されたと伝えられている。
(「神長官 守矢史料館のしおり」 諏訪市 p.17より)
(御贄柱(おにえばしら)の復元)
赤い着物をきた子どもが、この柱に縛られていた。
かつては儀式で殺されたという。
8歳から15歳の男児が選ばれたという。
「自分の子どもを差し出す代わりに、他所からさらってきた子どもを生け贄にしたこともあったろう」
伝統であるからと、無条件に継続するものではない。
(サナギ鈴の復元)
残すべき伝統と、廃止されるべき伝統。
諏訪で行われる六年ごとの御柱祭りでは、いつも死人が出る。
危険極まりないのに、警察も手出しができない。
子どもの頃から、小学校やPTA総出で、諏訪の人々は、諏訪のまつりや伝統を継承することの
大切さを教えこまれる。
住民はほぼみな順番に氏子を務め、地域社会のなかの上下関係の密な組織のなかで生きていく。
御柱祭で死んでも、名誉の死とはされない。
遺族も、「集落の皆さんにご迷惑をかけた」との捉え方である。
木降ろしや木立てで死者を出す、これは、人身御供の現代の形、とも聞いた。
諏訪の女たちは、どんな思いだろうか。
夫と息子を案じるお気持ちは、どんなだろうか。
うさぎでも、耐えがたい。
カエルでも、耐えがたい。
人間なら、どんなにか、つらいことだったろう。
神が善ではなかった遠い時代、
人々が自然を恐れていた時代。
仏教がなぜ急速に広まったのか。それは殺生をしない、生け贄をしないように諭したからでもある。
かつて犠牲にされた子どもたち。そして、正月の蛙狩神事、来年は御柱祭の年です。
伝統よりも、名誉よりも、命がいちばん大事なものだと、声をあげていきます。
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諏訪に行って参りました。当方では、理解を得るにはまず、
が、
今回の諏訪訪問に同行下さった弁護士Santa.CHAIRAさ
冠省
当職は、長野県の諏訪大社で毎年元旦に執り行われている「
蛙狩は、川で冬眠している蛙を掘り起こして、
思うに、神道は、自然や命を敬い、清浄を貴び、
のみならず、神道は、
それにもかかわらず、諏訪大社は、
当然ながら、
のみならず、諏訪市公共物管理条例第4条第2項に照らしても、
日本国は、もし蛙狩を放置するとなりますと、
ご存知の通り、
来年は諏訪大社の御柱祭の年であるだけでなく、
貴庁らにおかれましては、来年以降の蛙狩を廃止するよう、
平成27年12月4日
Santa CHIARA
〒100-8959
東京都千代田区霞が関3-2-2
文部科学省 御中
〒100-8975
東京都千代田区霞が関1-2-2
環境省 御中
〒100-8111
東京都千代田区千代田1-1
宮内庁 御中
〒151-0053
東京都渋谷区代々木1-1-2
神社本庁 御中
〒392-0015
長野県諏訪市中洲宮山1
諏訪大社 御中
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元旦の朝の抗議行動に参加される方は、fwin5675@
までご連絡ください。
蛙くらい、いいじゃないか、と言われます。
でも、蛙から、なのです。
by おかめ